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ヒトラーの誕生日は蒙古襲来・フランス革命

 投稿者:ねこ  投稿日:2013年 2月26日(火)14時06分8秒
返信・引用
  ヒトラーの誕生日は蒙古襲来・フランス革命

http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p032.html#page209

巧妙なまでに準備された誕生日だった。

その4日前には、ヒトラーの影武者チャップリンが生まれていた。

( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/01/p009.html )
 
 

『彷徨える帝 / 安部龍太郎』

 投稿者:よんぎぃ  投稿日:2011年 9月14日(水)15時03分25秒
返信・引用
  ブックオフで上下巻各¥105円で購入。

 観阿弥は後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇と三代の帝に仕える間に
南朝の内情に通暁していた。
 伊賀の服部一族は長年、吉野の帝の隠密として働いてきた。
観阿弥の祖父・竹阿弥は服部一族の出である。
竹阿弥が大和に出て、申楽の一座を立てたのは、吉野の帝の隠密として
諸国を往来するためだった。
 観阿弥一座は駿河の守護・今川泰範に招かれて能を演じていたのだが、
南朝の差し向けた刺客によって観阿弥は殺害される。
観阿弥は死の間際、息子の世阿弥に「帝の御世が危うくなった時に使うように」と
ある秘密をしたためた書付を預けて絶命した。
その秘密とは---後醍醐天皇が生存中、三種の神器がまだ後醍醐天皇の
手元にあったとき、神器が持つ神秘の力を、天皇自らが彫った能面、
黒色尉・白色尉・父尉の三つの面に移し替え、さらに天皇の呪力を
各面に封じ込めた・・・その能面の隠し場所の記し書きだったのである。

北朝の後小松天皇は南朝から返された三種の神器から聖なる力が抜き取られて
いることに気付き、このことを密かに知った三代将軍・足利義満は
この際、“帝”をこの世から消し、現皇統に代わって足利氏の皇統を造ろうと
企んだ、この企てを阻止しようと世阿弥は父から託された遺言をもとに
三つの能面を見つけ出して、世に出した。
このうちの一つ、白色尉の能面を手にした今川了俊は能面の呪力に操られ、
将軍・足利義満の重臣でありながら、鎌倉公方・足利満兼や大内義弘と図って
倒幕を企てた〔応永の乱〕
この後、世阿弥元清(=横大路の仙人)は<<永享六年(1434年)>>に将軍・
足利義教の怒りに触れて佐渡に流罪となったが、ひそかに島を抜け出して、
南木正盛のもとに身を寄せていた。世阿弥の祖母は楠木家の出であり、
正盛とは縁続きになる。

 北畠宗十郎は伊勢の一志郡多気で生まれた。
宗十郎の母は伊勢国司・北畠満雅の妹・輝子、父は誰なのか知らされてない。
輝子は宗十郎が五歳の時に何者かに連れ去られたため、
叔父の北畠満雅に預けられた。
 北畠家は村上天皇を祖とする名家で、『神皇正統記』を著した北畠親房は
北畠満雅の曽祖父に当たる。
 宗十郎が北畠満雅の養子となって三年後の<<正長元年>>、
北畠満雅は後亀山天皇の皇子・良泰親王とその子、小倉宮泰仁王を奉じ、
鎌倉公方・足利持氏と結んで倒幕をめざしたが、幕府軍に敗れ、伊勢で自刃した。
 このとき残党狩りから北畠一族を守ったのは北畠満雅の従兄弟にあたる
北畠道円だった。道円は生き残った北畠一族を高雄山に移住させ、
倒幕の志を育てようと北畠宗十郎ら若者に武芸を教えた。
他に忍者の服部孫八は北畠宗十郎に忍びの技を教えた。
北畠宗十郎とともに修行した者に、新之助と左近がいる。

北畠道円は北畠宗十郎に山を降り、駿河に下り狩野貞行をたずねるよう命じる。
目的は、亡き後醍醐天皇が彫ったという、黒色尉の能面を手に入れるためである。
狩野貞行は三年前に駿河の守護大名・今川範忠の軍勢に攻められ、
山中に隠れ住んで再起を図っているという。
狩野家は代々、皇室の荘園であった服織荘の荘官で安倍城を居城としていた。
狩野右馬介貞行の曽祖父である狩野介貞長は故・後醍醐天皇の皇子・宗良親王を
安倍城に迎えたが、安倍城が今川方に攻められて落城したために、いったん
俵峰に逃れ、尾根伝いに信濃へ向かおうとした。この時随行したのが、
信州望月城主・望月遠江守光経である。だが、望月光経の娘・玉姫が宗良親王の
御子を身ごもっていたために同行を断念し、俵峰に城を築いて
今川方に備えることにした。 やがて玉姫の産んだ子が望月家をついだ。

北畠宗十郎は旅路、刺客の岡部六左衛門に襲われるが、服部孫八の加勢で助けられ、
狩野貞行がいると思われる、俵峰にたどりつく。
俵峰にはもともと安倍七騎と称された杉山一族が砦を築いていたが、
今は宗良親王の後胤に当る望月遠江守光政が当主をしていた。

今川了俊が九州から遠江に連れ帰った背振衆という山岳集団が、黒色尉の能面の
ありかを知っていることを掴んだ北畠宗十郎らは、彼らに接触し、
その隠し場所を記した巻物を入手する。

南北朝の合体は<<明徳三年(1392年)>>、合体後は南朝(大覚寺統)と、
北朝(持明院統)から交互に天皇を立てるという条件で和議を結んだが、
足利幕府はこれを守らなかった。<<応永十九年(1412年)>>に
後小松天皇が譲位したときや、<<正長元年(1428年)>>に称光天皇が崩御したときも、
南朝から天皇を立てるという誓約を踏みにじり、北朝の天皇を擁立した。
称光天皇が崩じたときは南朝方は今度こそ小倉宮泰仁王が皇位につくものと
確信していた。ところが幕府は伏見宮貞成親王の子・彦仁王を立てて
後花園天皇とした。

大和の多武峰では、前の高取城城主である越智維通が大和・伊勢・紀伊の
南朝方を結集し、三年前の<<永享七年(1435年)>>以来、幕府との戦いを続けている。

<<正長元年(1428年)>>に四代将軍・足利義持が病死したが、このとき、
彼には後継者がなかった。彼のただ一人の男子であった足利義量を<<応永三十年
(1423年)>>に五代将軍としたが、二年後にわずか十九歳で他界したからだ。
そこで足利義持の四人の弟(足利義満の男子)の中から将軍を立てることにしたが、
幕府を支える有力守護大名たちの利害がからんで、後継者選びは紛糾した。
足利義量の死後、三年間も将軍位が空位となったのもそのためで、
足利義持の死が近くなったので、やむなく四人による“くじ引き”によって
将軍を決めることにした。候補者は次の通り→①青蓮院にいた義円、
②大覚寺の義昭、③相国寺の永隆、④梶井門跡の義承
くじ引きの結果、青蓮院の義円が当り、還俗して第六代将軍・足利義教となった。

六代将軍・足利義教の近習、朝比奈範冬は今川家の第四代当主・今川範政の長男、
今川範忠の双子の弟で、生まれるとすぐ、朝比奈泰親の養子となった。
今川家は足利一門の名家で、初代・今川範国が駿河・遠江の守護職に任じられて
以来、幕府を支えてきたが、両国を完全に掌握していたわけではなかった、
国人や地侍と呼ばれる土着の小領主の知行権を保障することによって、
彼らと主従関係を結んでいるに過ぎなかったのである。
そのために、主君の代替わりごとに、家督相続争いが起こった。
国人たちが家督相続の権利を有する兄弟の中で自分に近いものを領主にして
勢力の拡大を図ろうとしたからである。
五年前の家督相続争いでは…今川範政には範忠の他に弥五郎、千代秋丸という
後継者候補がいて、いずれも母が違っていた。
今川範政は正室の子である千代秋丸を跡継ぎにしようとしたが、将軍・足利義教は
今川範政の長男・範忠を推してきた。これには、千代秋丸の母は関東管領家の
一門である上杉氏定の娘なので、今川家が上杉氏定を通じて鎌倉公方に
接近することを怖れたためであった。
この争いに国人たちが加わり、将軍側VS鎌倉公方の様相を呈し、
国を二分する内乱となった。
今川家の侍大将である朝比奈泰親は終始中立の立場を取った。
掛川の朝比奈本家は今川範忠に従ったが、朝比奈泰親は主君・今川範政に義を
尽くしたのだが、世間はこれを朝比奈範冬を擁立するための策略と見た。
形勢不利となっていた千代秋丸派は範忠派を切り崩すために、
朝比奈泰親を見方に引き入れようと、千代秋丸が成人するまでは
範冬を当主にするとさえ申し入れてきた。
これ以上誤解を深めることを恐れた朝比奈泰親は朝比奈本家を通じて
今川範忠を動かし、朝比奈範冬を将軍の近習として京都に送ったのである。
その朝比奈範冬は足利義教から故・後醍醐天皇が彫った黒色尉の能面を
手に入れるよう命令を受ける。
供として、義教子飼いの忍び、声色の名人・蜥蜴と変装の名人・空蝉をつけられた。

朝比奈範冬はかつての婚約者、清姫が黒色尉の能面について何かを知っているという
ので今は時宗の教下集団に所属している清姫に近づく。
清姫は今川範政の弟、今川範次の末娘で、父・範次は五年前の家督相続争いに
千代秋丸派に加担したために、今は駿府に幽閉されていた。
清姫は父の解放を条件に範冬に協力をすると約束したが、これは範冬の養父、
朝比奈泰親を再び家督相続のクーデターに引き出すための罠だった。

・・・と、こんなお話です。(打ち疲れたのでこの辺で終了!)
 

『無惨や二郎信康 / 南條範夫』

 投稿者:よんぎぃ  投稿日:2011年 9月 9日(金)14時04分17秒
返信・引用
  ブックオフで¥105円で購入。

前記事に引き続き、六代将軍足利義教の治世の頃のお話。

丹後領を継いだ一色二郎信康は叔父の若狭守護・一色義貫の陰謀で、
幕府に召しだされて上京したところを惨殺され、
彼の領地は一色義貫に譲渡されることになった・・・というのが通説なのだが、
 作者(南條氏)が調査したところによると、
一色二郎信康はその領地から京に出かける直前に何者かに殺され、
その墓が近年まで残っていたという新たな資料を発見、
・・・ということは、一色二郎信康は二人存在したことになる。
そこで、作者は様々な仮説を立ててこの謎を解いていきます。
 

『魔将軍 / 岡田秀文』

 投稿者:よんぎぃ  投稿日:2011年 9月 2日(金)11時14分35秒
返信・引用
  ブックオフで¥105円で購入。

タイトルは『魔将軍-くじ引き将軍・足利義教の生涯-』です。

三代将軍・足利義満は幕府の権威を高めるとともに、
自らの野望→朝廷を廃して足利天皇をつくるため、
次男の義嗣が皇太子になろうかとする目前で
公家の二条満基が仕組んだ毒殺の陰謀によって、
突然、この世を去ってしまいます。
四代将軍・足利義持は義満が寵愛していた義嗣に
自分の地位がとって代わられるのではないかと恐れていたので、
義満の死亡を契機に義嗣を陥れ処刑しました。

足利義持は三十八歳で将軍職を嫡子の足利義量に譲りますが、
義量は将軍就任後わずか二年でこの世を去ってしまいます。

足利義持には他に男児がいなかったので、
幕府重臣の間で協議した結果、足利義満の男児(義持の弟たち)の
うちの誰かを次期将軍にしようと決めたのですが、
候補者が四人おり、それぞれの重臣たちの思惑もあり、
調整困難となったため、くじ引きで四人の中から一人を選びました。

選ばれたのは義満の三男、4代将軍義持と母を同じくする、
出家して青蓮院にいた義円でした。
義円は還俗して六代将軍・足利義教となります。

この足利義教は優秀な政治家で、
後に織田信長と徳川家康のやったような政策を
じゃんじゃん実行していきます。

この本読んでて、足利義教の人物の面白さにハマりました。
いやぁ~、こんなすごい人がいたとは・・・
・・・と、うならせるお話になってます。

お勧め度→★★★★
 

『薩摩・大隈守護職 / 西山正徳』

 投稿者:よんぎぃ  投稿日:2011年 8月24日(水)13時38分50秒
返信・引用
  鹿児島空港の本屋で¥1,900円で購入。

朝廷が南北に分かれる少し前、
薩摩・大隅・日向の守護大名、島津氏第五代“島津貞久”は
国の実権を握るのはいずれ足利尊氏だろうと見極め、
足利派として協力することを決めるが、
領国内には島津の支配が強くなるのを嫌って、
いくつもの戦乱が起きる。
そのうち、身内からも離反者が出たり、
また、これまで敵だった者が見方になったとおもえば、
再び三度、敵味方に別れるなど、
南九州一体はぐちゃぐちゃなありさまで、
この本を読んでいても何がなんだかわからなくなってきます。

お話の締めくくりは、三代将軍・足利義満が病死し、
第七代の島津元久が五代貞久から幾多の戦乱をくぐり抜け、
何度も手放した守護職の地位を取り戻すところまで書かれています。

ちなみに、九州はこの後も戦乱がずっと続いたみたいです。

内容がかなりややこしいので、
ノートにわかりやすくまとめたヤツを
↓↓↓下にズラっとアップします。↓↓↓

 

『薩摩・大隈守護職』まとめ1

 投稿者:よんぎぃ  投稿日:2011年 8月24日(水)13時31分52秒
返信・引用
   

『薩摩・大隈守護職』まとめ2

 投稿者:よんぎぃ  投稿日:2011年 8月24日(水)13時25分39秒
返信・引用
   

『薩摩・大隈守護職』まとめ3

 投稿者:よんぎぃ  投稿日:2011年 8月24日(水)13時21分0秒
返信・引用
   

『薩摩・大隈守護職』まとめ4

 投稿者:よんぎぃ  投稿日:2011年 8月24日(水)13時16分28秒
返信・引用
   

『薩摩・大隈守護職』まとめ5

 投稿者:よんぎぃ  投稿日:2011年 8月24日(水)13時09分4秒
返信・引用
   

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